2018年1月7日日曜日




衝動買いに近かったGT500も、購入して3年が過ぎた。

3年で15,000キロほど乗ったが、ここ1年は3,000キロぐらいしか乗っていない。

50歳も過ぎると、心身ともに変わってくる。

若かった頃のような車に対する熱は、今はそんなにないのかも知れない。
趣味性の高いモノって、所詮、自己満足の世界だしね。
ローンはないが、2台分の維持費もかかるし、「無駄が多いなぁ」なんて事をいつも感じながら乗っている。



でもやっぱり好きなんだろうか…

でなかったら、マスタングに15年も乗らない。



行ってらっしゃい、おっかちゃん 4


母が逝ってからの日々というのは、故人を偲ぶような余裕もなくて、
通夜と葬場祭の準備でとても疲れた。
冠婚葬祭は人として当たり前の儀式なのかもしれないが、時として人に優しくない行事なのではないかと前々から感じてた。
俺に家族でも居てお願いするとしたら、葬式なんていいから、火葬場に直葬して散骨なり処分なりして、浮いたお金で飲み食いでもしてくれたらいい。あとは心の中で少しでも思い出してくれたらそれでいい、って事だろうか。
それでも自分の母であるから、できる事は精一杯やった。
姉の手助けもあり、先月の納骨も無事に終えた。

生前の母は、「ぽっくりと逝きたい…」と良く語ってた。 
ただ、残された側としては、あまりにもあっけなくて心の置きどころを失ってしまうのだけれども、亡くなる前の週は富士山五合目まで旅行に行き、三日前はサークルのフォークダンスを元気に踊って、前日まできちんと家計簿まで付けていたぐらいだ。
母はあまり苦しまずに本懐を遂げたわけだから、良しとするより他はないのかも知れない。

母が救急で運ばれた際、「頭痛と眩暈がひどい」と自分で119番通報し、連絡先である俺と姉の事を伝えつつ、「延命処置をしないでください」と救急隊員に言ったそうだ。
救急が着くまでの間、母は旅行バックに自分で着替え等を詰め、入院の準備までして倒れていたらしい。


「大変な時に居てやれなくてごめん、でも… 偉いなおっかちゃん。
くも膜下出血起こしてるのに自分でてきぱき段取りまでして、そんなに綺麗に逝けるものなのかい?
俺には絶対マネできないよ。
でも、俺も男だからおっかちゃんを見習わなくちゃいけないね」

そう思った。

半世紀を越えるぐらい俺も生きて来たけれど、それまで現在進行形で生きてきた証と記憶がすべて過去のものになるという事を、父と母の死をもって知った。
やはり寂しいし、なんだか力も沸いてこない。
ただ、人というのはやっぱり、記憶をたぐって生きていく心の生き物だ。
今までの事を想い出して、噛み締めたり涙したりしながら腐らずにやる事が生きる事なんだ。
でなかったら、母に笑われてしまうよね…



それじゃあ 最後に


おっかちゃん、行ってらっしゃい

向こうには父も兄も居るから大丈夫だよね?

さようなら

いや、とりあえず、行ってらっしゃいだね

あの世の事まではわからないけど、
また遭う日まで…






2017年12月18日月曜日

行ってらっしゃい、おっかちゃん 3


4日

実家に泊まり、朝になって病院に向かった。

午前10時ぐらいだったか? 病室に入る。

横になっている母の様子は… あまり変わってない感じがする。
姉にも「母は特に変わりないよ」ってメールしたように思う。
いつものように傍らに腰掛け、母に話しかけながら顔を触ってみたりする。
実家から持ってきた新聞を広げ読む。
病室のテレビをつけてみたりもする。
廻りにはいろいろな音が溢れているけど、自分には静かな時間が流れる。

お昼どきが近づいた。
姉の友人が持ってきてくれたお弁当をもって談話室に行き、備え付けのレンジで弁当を温めて食べた。周りには数人居たかな…
黙々と1人で弁当を食して、昼を済ませた。
病室に戻る。

「ん?」
母の顔色を伺うと、ほんとになんとなくではあったけどちょっぴり青白いというか、冷たい感じの色合いというか、ほんと、ほんの少しなんだけど顔色が悪くなっているような気がした。

しばらくすると看護師さんがやってきた。
「心拍がだいぶ弱ってきています」
そう言って何分もしないうちに、主治医の先生が来た。
その時の先生の言葉はもう覚えてない。
もうわかっていた事だから。

84年続いてきた母の命は、目の前で幕を閉じた。

俺は母の手をとって握りしめて
「いままでありがとう」
そう言っていたと思う。
以前の親方の時と同じように…

2017年12月1日金曜日

行ってらっしゃい、おっかちゃん 2


母を見舞って、姉と俺は実家に戻った。

俺は毎度のことだが、個人請負で仕事をやっているので休めない。
その日は実家に泊まり、早朝の3時ぐらいに起きてカローラに飛び乗り、東北道で東京に向かった。真っ暗な高速道を、夜中のテレビでもぼんやり眺めるような感覚でハンドルを握って運転している。
「トラックも結構走ってるなぁ」なんてボヤきながら…
それからの日々というのはとにかく、時間や曜日の感覚があまりなく、半分夢心地のようなユラユラした状態だったかな。

世田谷で仕事をしながら、寝不足とこれからの事で気持ちは不安定だった。
15時ぐらいに仕事を終え、また宇都宮に向かった。
病室に行くと姉と甥姪たちが来ていた。
日中は母の妹弟が見舞いに来たらしい。
母は昨日と変わっていない。

変わっていない?

今の母の状態はどういう状態なんだ?
生きていると言えるのか、ピクリとも動かない。
目も開けないし、言葉も発さない。

その日、母を個室の病室に移してもらった。
皆で母を囲んで座っている。
しばらくすると主治医の先生が来た。
神妙な面持ちで母を見て、言葉を飲み込んでいるようだった。
しばらく沈黙が続いた。
「何かありますか?」と、去り際に先生が問うてきた。
皆、何も言わない。
俺は無意識に言葉を発した。
「あの、しばらく、何日もこういう状態のままなんでしょうか…」
先生は「一週間も二週間もは…、ないですね…」と、とても静かで柔らかな口調で答えてくれた。
それを聞いていた皆は、なんとなくわかってはいたのだろうけど、
主治医の言葉を理解して、急にすすり泣きだした。


椅子に腰掛けて、ただひたすら時間が流れる。
人工呼吸器の音だけ規則正しく響いている。
姉も仮眠できる部屋に出ていった。
傍には母がいる。
頬にふれると暖かい。
ふと話し掛けるけど、何も返してくれない。

11月3日の早朝。
俺は「何か食べてくる」と姉に言って外に出た。
ファミマでミートソースを買って車内で食べたと思う。あとホットコーヒーも。
すぐに病室に戻った。
姉も当然疲れている。
「何日かはこっちに居れるから、家に戻ってもいいよ」
俺は姉にそう伝え、とりあえず早朝に二人で実家にもどり、
姉と子供たちは埼玉の住まいに戻った。
俺は数時間実家で休んでそれからまた病院に行き、何時間か母の横に座っていたかな。

夜になって俺はひとりまた実家に戻った。
母も誰も居ない実家で夜を過ごすのは、この日が初めてのように思う。
何を食べたっけ?風呂は沸かして入ったな…
とにもかくにも、静けさと寂しさで実家にあんまり居たくなかった。






2017年11月30日木曜日

行ってらっしゃい、おっかちゃん 1


11月1日

この日は仕事が半日で終わり、予定納税でも支払いに行くかと、チャリンコに跨って近所の銀行に向かう途中、携帯が鳴った。
表示は母から…

普段、こんな時間帯に携帯電話になんてかけてこない。
胸騒ぎがした。

携帯に出ると、救急隊員からだった。

「東京の息子さんですね。お母さんが救急で運ばれました。
心肺停止がありましたが、どうにか心拍は戻っています。
とても厳しい状態です。いずれにしてもすぐに戻ってあげて下さい。
病院の方から電話連絡があると思いますので…」

他にもあれこれと言っていたが、とにかく母が倒れてしまった。
姉に電話した。  出ない。
急いで税金を納めに行って、部屋に戻る。
もう一回姉に電話したら出た。

「おっかちゃんが心肺停止して蘇生して…」
そんな事を伝えている電話口の向こうの姉は、そりゃやっぱり慌てている。
姉も急いで宇都宮に向かったようだ。
俺は東北道をMTのカローラで、ずっと右車線のまま走って行ったように思う。

夕方に病院に着いた。
受付して救急の病棟へと案内される。
姉が先に着いていた。
面会はしてなくて、ざっくりと入院の説明を受けていたようだ。

どれぐらい待ったかな。
主治医の先生が待合室に入ってきた。
こんな風に回想しても、その時の相手の一言一句すべてなんて覚えてない。
とにかく先生は、「お母さんはとても大きな動脈瘤を持っていましたね。それが脳で破裂して心肺停止になり、救急隊員の措置で蘇生。病院に来てからまた破裂し、また蘇生しました。
今、脳の中は血だらけで、人工呼吸器につないで心臓を薬で無理やり動かしている状態です」
そんな文言を聞いている姉弟は意外と落ち着いていて、でもきょとんとしていた。

それから病室へと案内された。

ベッドに母がいた。

そこにいる母は紛れもなく俺の母なんだけど、
人工呼吸器で空気を取り入れ、薬で心臓を動かしている状態の彼女の顔や体に、
生命の覇気のようなものはない。
呼吸器の「シューッ、プスーッ……シューッ、プスーッ…」という、ただただ一定の動作音に合わせて、胸が上下しているだけだ。

母からふと目を外すと、病室の窓の外は茜色の空がきれいに広がって、ほんとに胸に染みわたってくるような夕焼けだった。
でもやっぱり俺は母の傍らに腰掛けて、目は涙であふれていたっけ…






2017年1月26日木曜日

ガットギターの音色

 
 
 




ほんとにとおい昔、自分がまだ小学生にもならないようなころ…

家に一本のクラシックギターが置いてあった。
たぶん親父が買ったらしいのだが、弾いてる姿も弾いてもらったような記憶も残ってない。

同じころ、姉貴が持っていたLPレコードを勝手に引っ張り出して、自分はよくサイモン&ガーファンクルを聴いてた。
プラグを介さない、優しい音色のギターと彼らのハーモニーが子供の自分の心によく響いた。

そんな幼いころの記憶のせいなのかはわからないけど、大学受かって一人で上京するときに、親父のガットギターも一緒に勝手に持ってきて、いつもアパートで適当に弦をはじいてた。
たいして弾ける訳でもないのに。

ロックのギターやベースやドラムは女性が弾くとなんだかちょっぴり頼りないんだけど
女性の奏でるガットギターの音色は
大きな質量の体と手を駆使して出す男性の音色とまた違って
表情豊かで繊細だ。


雲の上の親父は何を想ってギターを手に入れたのかはわからないけど、
あなたの息子は、言葉はなくてもなんとなくわかってるみたいですよ…









2016年11月9日水曜日

一喜一憂


俺が学生の頃は、携帯電話もなかったし、インターネットやらパソコンなんてのもなかった。

彼女とデートをするにしても、直接約束するか、家の電話でやり取りして時間や場所を決めるぐらいだった。約束したらあとは現地で待つしかない。今どの辺まで来たとか、30分遅れそうとか、知る術もない。それでもまあ、人間関係は成り立つ。約束どおりに事が進んでも、すっぽかされてしまっても、それはそれで味というものでしょう。

昔はなかったモノが世の中に流行り始めると、若い子たちはそれなりに吸収するのも早いが、俺みたいな歳になるとそうもいかない。

ハロウィン? なんだそれ。
恵方巻き? そんな習慣あったっけ。

なんて事をチラチラ感じながら考えれば、自分よりも年配の人にとっては、クリスマスもバレンタインも同じような事が言えるんだろうなと思ったりする。

テレビも新聞もインターネットも、伝わり方には差があるけどたくさんの情報を我々に与え、考えさせて、悩ませる。
伝える側の儲けを含んでいるから、人々は悩んで一喜一憂する。

政治はこうだ、学歴はどうだ、ファッションはこうだ、ライフスタイルだ、自由だ平等だ、所得だ、男と女だ…
大きくて高次な脳を抱えている人類は欲も悩みもなんだかややこしい。




自分で大切にしている感覚というか、思いが一つだけある。

子供はなぜ走り回るのか?  という事だ。
誰に頼まれなくても、彼彼女たちは、疲れという概念を理解せず走り回る。
子供は元気だから…  確かにそうだけど
俺がもし答えるとしたら

「生への執着を持っているから」 
だろうか  

なんで山なんか登るの?
それに対する答えも一緒なんだ。

それでもわからなければ、あなたが生まれてきた事を考えたらいい。

自分の父と母が結ばれ、母の体内に父の何億という種が放出される。
肉眼で確認したことなんてないが、たぶんオタマジャクシみたいなものが卵子を目指して、永くて過酷な旅に出るんだろう。
競り合いながら力尽き、精魂尽き果てるのか、ほとんどの種は死んでゆくだろう。
その中には、我々がわからないだけで辛くて苦しい、逆に晴れやかで楽しいドラマも山ほどあったのだろうと思う。そんな中をくぐり抜けながら種たちは泳ぎ、進み続けるのではないか。
そんな種たちに、「あなた達はなぜそんなに頑張って泳ぐの?」
と、問う者はいないでしょう。
戦い抜いて晴れてこの世に生を受けたとしても、それは人があの世とこの世を勝手に分けて考えているだけで、勝利ではないでしょう。
戦いは続いているんだ。だから邪心のない子供たちは走りまわる。腹の中の続きなんだ。

人は豊かな感情を備えているけど、でもずっと腹の中の戦いのまんまなんだ。
楽しければお腹がよじれるまで笑い、悲しければ泣きじゃくり、
あとはそんなに世間の時事に一喜一憂しないで
人事を尽くして天命を待つほかないでしょう。